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  • 執筆者の写真vicisono

輪る(まわる)愛と誠

更新日:2019年11月22日

※この投稿は2012-7-3に旧サイトの日記ページにあげていた記事を再編集したものです。


きみのためなら死ねる


そんな訳で、三池崇史版『愛と誠』。


あくまで『愛と誠』をネタにした映画であって、人物配置等は同じでも梶原一騎先生の『愛と誠』とは全く違ったテーマや存在意義を持つ作品だなーというのが結論。


一番端的なのが岩清水の告白場面。

原作の岩清水のセリフ(愛に送った手紙)は


夏休みのあいだ、きみのことばかりを考えていたあげく、 このことだけ、きみにつたえておく決心をしました。 おたがい、まだ中三では勉強が先決であり、 恋だの愛だのという感情には慎重でなければならぬと、 よくわかっています。 だから一つだけ、ぼくの心からなる誓いだけ、 つたえておきます――
早乙女愛よ、岩清水弘は、きみのためなら死ねる――

そして


「わたしは……早乙女愛は……」 愛のつぶやき、じっと虚空の一点をみつめる視線のゆくてに、 幼児キリストを抱いて金色の輪にくるまれた聖母マリアの画像。 「太賀誠のために死ねるだろうか?」 と、ひたむきな瞳の色で自問自答。 「いいえ、そのまえに……わたしは彼を愛しているのだろうか?」 (『愛と誠―梶原一騎直筆原稿集』より)

…と続く訳ですが。


岩清水は「秀才」であり、社会規範に則って奮励努力しひとかどの人物になろうとしており、よって今は学生の本分に則った生活をし、恋愛にウツツを抜かような事はすまいと心に決めている。

それでも尚、そんな自制心を凌駕しかねない情熱を愛に対して抱いており、それ故に噴出したのが上記のセリフ。


一方、映画版の岩清水が愛に面と向かってとうとうと述べ、「空に太陽があるかぎり」を歌い踊る際のセリフは、原作の表現を借りてはいるものの、煎じ詰めれば

「僕は貴女を偶像として崇拝します」「貴女との間で何かを分かち合い関係を深めるつもりはありません」「貴女にも性欲が存在する事は無視します」

と言ってるようなものであり、自分の都合を一方的に押し付けてるだけ。相手の実像なぞ見るつもりもない、完全なるエゴだ。


求道物語


『巨人の星』が野球を題材にした求道物語であって「野球漫画」ではないのと同様に、梶原一騎先生の『愛と誠』も恋愛を題材にした求道物語であり、原作の展開パターンは大体このローテーション。

1. 愛の「よかれと思ってした行動」を受けて誠が剣呑な騒ぎをおこす。

 ↓

2. 愛、傷つく。岩清水、義憤にかられる。

 ↓

3. 誠の真意が判明する。

 ↓

4. 愛、己の浅い考えを反省。誠を愛し続ける事を再度心に誓う。岩清水、敗北感。


映画版だと、愛は「よかれと思って」無神経極まりない迷惑な言動をし、誠がイラつく。「コミュニケーション不可能な狂人」である愛は、自分が誠をイラつかせている事にすら気付かない。岩清水はウロチョロしてるだけ。


花園学園の不良連中も、誠の周囲の人間関係について勝手に斟酌して行動し、なりゆきで面倒な事態に巻き込まれた誠はひたすらイラつく。


凄まじいまでの徹底したディスコミュニケーション。

(実際、作中で誠は何度も他の登場人物に向かって「我々の間では会話が成立していない」という意味の事を言っている)



ちなみに一般に映画のミュージカルシーンでは、作中人物が歌いだすとその場はまるごとミュージカル空間になるのが普通だが、愛や岩清水が歌いだしても他の登場人物は所在なげにそれを見守るか、無視する。


愛の「あの素晴しい愛をもう一度」の場面でも岩清水の「空に太陽があるかぎり」でも、歌い踊るのは当人だけ、他の登場人物はフルコーラスの間、唖然として見つめているか、無関心に通り過ぎる。


歌い踊る程の強烈なエモーションを、愛も岩清水も他者とは共有しない。強烈なエゴを発散しているだけ。


ふたつのマリア像


なぜなのか? なぜ、あの徹底的に残忍で、好戦的なケンカ・ガッツが、おのれからさったのか誠自身、わからぬらしく…… で、彼は、ただ、びっくりしたような目の色をしていた。
あえていえば、これは母にすてられ、しかし、あの死の踏み切りで 母に名を呼んでもらった誠の相手が、 父にすてられ自分をもすてた砂土谷峻であった結果か

原作のラストは、愛の感化をうけた誠は自分を捨てた母と一瞬だけ心が通い合い、母を赦し愛と同化した誠は「かつての自分」である砂土谷に哀れみをおぼえた結果、その刃を受け(愛に感化されていなければあっさりと倒していたはず)、愛に抱かれて死ぬ。


他者との共感、赦し、浄化としての死。

愛と誠の武器を持たぬ戦いにおいて、勝ったのは愛。


かつて早乙女愛が岩清水からの手紙を思いだしながら誠への愛を意識し、「愛」の象徴として見つめたのが「幼子キリストを抱くマリア像」

そして二人の関係の結末は、キリストの人としての生の終焉であるピエタ、「死せるキリストを抱くマリア像」なんですよ。


しかし映画のラストでは、愛や不良達のエゴに振り回された誠は自分を捨てた母のエゴを諦観と共に許容し、それまでは完全に眼中外だった「さる人物」からの不意打ちの刃を受け、心の通わぬままの身勝手な愛をも受容して死んでゆく。


原作の誠は聖母の元に還る為に刺されたが、映画の世界には聖母などいない。聖母ではない実母を、聖母にはなりえない愛を、誠は諦念と共に受容する。


追記:スティグマの少年


愛誠のラスト近くの展開を「話の収集がつかなくなって放り出した」と言う人は多いけれど、キリスト教モチーフのドラマとして読めば、全てが必然的展開だったのだと納得できます。


スティグマ(聖痕)を負った少年が、生家を出奔し、汚辱に満ちた俗世を彷徨する。 やがて無償の愛と自己犠牲を学び、強大な権力者と戦い、無責任で残酷な大衆に追い詰められながらも、自分の敵にすら情けを抱くまでになる。赦し赦される事を知った彼は、聖母に抱かれながら人としての生を終える。


権太や岩清水ならまだしも、砂土谷に情けをかけて刺されるのは何だか納得できない…と長年思っていたのですが、誠=キリストなら、親しい者の為ではなく赤の他人に対する愛によって死ぬのはテーマ的に必然だったのだと納得できます。


そこに考えを至らせるきっかけになったという一点だけでも、今回の映画化は自分にとっては意義のある事でした。


セカイ系梶原一騎


映画のラストシーンの地球と月の場面を見ながらボンヤリ思い出したのが、ライムスター宇多丸さんの『私の優しくない先輩』評



私はこの映画を実際に観ていないのでこの評が的を射たものであるのかは分かりませんが、 「恋に恋する夢見る少女がヒロイン」「あえてチープなハリボテ表現」「誇張されたポップでキッチュなテイスト」「挿入されるミュージカル場面」…と構成要素は似ている。


で、この評で言われている、

「監督の自意識の過剰」

「アイドル映画の枠を逸脱した怪作を撮った先人達の異形クリエイターっぷりと比べると、これ見よがしで小賢しい作家性主張」

「ヒロインをいっそ完全な狂人として描くような思い切りもない」

「頭でっかちな作家気取りの監督が拘泥する『何がリアルか』は、果たしてそれ程までに重要なテーマか?」

…を裏返すと、今回の愛誠になるなーと。


あらゆる意味で大人な百戦錬磨の豪腕職人監督による、意識せずともダダ漏れてしまう強烈な作家性。

アイドル女優演じるヒロインを完全に異形の怪物として描く思いきりの良さ。

小賢しい「生のリアル問題」なぞ軽々と置き去りにする堂々たる虚構。



ならば、濃密な自意識にとらわれたエゴイストたちがひしめく狂気じみた世界の中で苛立つ誠が、やがて諦念と共に決して分かり合えぬ人の現実を受容し、それと同時に今まで眼中外だった人物が初めて質量を持った個人として襲い掛かってくる…という展開は、ある種セカイ系的な見方も可能だろう。


刺された誠はあの濃密な自意識の世界から開放されて「その外側にある世界」に行ったのかも知れない。自閉した孤独から開かれた孤独へ。



変な映画だけど、嫌いではない。嫌いではないが、どう転んでもこれは梶原一騎の『愛と誠』ではないな。


まぁ、シェイクスピア劇が様々な解釈演出のもとに演じられるように、こういうバリエーションも否定はしませんが。


次はアニメで西洋風ファンタジーに翻案したバージョンとかを観てみたい。


 

ちなみに本作の脚本家・宅間孝行(aka サタケミキオ)は、本邦においてはかの『バットマン ダークナイト』をはるかに超える興行収入を叩きだしたという女子向け最凶エクスプロイテーションムービー『花より男子F』の脚本家なのですな。


それを考えると、女の身勝手な妄想に振り回される男、という構図は納得できるような気もしないでもない………か?

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