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  • 執筆者の写真vicisono

梶原一騎の定理(3)~魔女の肖像

※この投稿は2006-10-15に旧サイトの日記ページにあげていた記事を再編集したものです。

もし生きていれば、ほんとうの友だちになれたかもしれない。ボクシングをやめられたかもしれない。いっしょにね。 (ケイブンシャ『あしたのジョー大百科/映画版』2002年刊より)

出崎統監督が、ジョーと力石について語った言葉。

思わずグッときたけど、「いっしょにボクシングをやめる」ということは、「二人して白木葉子の魔手から逃げ出す」ということですよね(笑)。


『あしたのジョーの方程式』でも葉子に関する発言が多いのですが、行間から島本&ササキバラ両氏の「白木葉子恐えぇ!」という想いがヒシヒシと(笑)。


そんな殿方を更に震え上がらせる、『あしたのジョー』の文字原稿版ラストシーン。


パンチドランカーのまま最後のリングに挑んだジョーは、試合のあと更に症状が悪化し再起不能となるんだ。 そんなジョーとカーロスが公園でな…。 (略) そこで椅子に座ったジョーがつぶやくんだ。 「俺は試合では負けたけどケンカには勝ったんだ」ってね。 それを聞いてもカーロスには何も解らない。 それを白木葉子が窓辺から何かを思うように見ている。 そんなラストだったと聞いているよ。 (『劇画バカ一代 梶原一騎読本』より 真樹日佐夫 談)

…つまりね、廃人になることで、ようやくボクシングから解放された男二人が、魔女にして女神の白木葉子のもとに回収されて物語の幕が下りるのよ。


白木葉子が嫌いだったちばてつやは、試合前の葉子の愛の告白で、魔女にして女神のはずの葉子を人間の女に引きずり下ろした上で、完全燃焼という綺麗な結末を与えることによって、ジョーと力石を葉子の掌の内から逃がしてやった、ということになります。


いわゆる「梶原三部作(『巨人の星』『あしたのジョー』『愛と誠』)」について、梶原先生ご自身は「父子の愛、師弟の愛、男女の愛」をテーマにして書こうとした、とおっしゃっていますが、『あしたのジョー』を読んで「師弟愛がテーマの物語」と解釈する読者は、あんまりいませんよね。


恐らく連載前に描いていた基本ラインは、「力石を手始めとして、次々と白木葉子から送り込まれてくるライバルを、ジョーと段平の師弟が迎え撃つ」というものだったのだろうと思います。


少年院時代までは確かにそんな感じですが、以降は力石とのライバル関係の印象が強すぎて、おっちゃんとの「師弟の絆」はウェイトが軽くなっちゃった。


(付記:原作原稿の導入部では、漫画版ではボクシング協会の役員のセリフのみで説明されている、段平が審判に殴りかかって新人ボクサーを潰した事件から始まっていたらしい。)



もとの構想とズレが生じたというのは確かにあるでしょうが、基本的に段平のおっちゃんって、星一徹や車周作と違って「父権」を感じさせないキャラですよね。ジョーもおっちゃんの事を「乗り越えるべき存在」とは思っていないし。


特に力石戦以降のおっちゃんは、ジョーの心配をしてオロオロしたり、ジョーの無茶な行動を止めようとしたり…食事の面倒を見るシーンが多いせいもあってか、なんだかジョーの母親みたい。


なんか、第2部の葉子って、 それまでとキャラクターが違うような気がします。 このまんがの狂言回し役というか、 裏で全部のシナリオを書いているというか、 原作者の代弁者というか。〔ササキバラ・ゴウ〕

ボクシングから離れようとしたジョーを、ありとあらゆる手を使って引きもどし、ライバルをぶつけて試練を与え、最後の戦いまで導いてきたのは、段平ではなく白木葉子。


あなたは ふたりから借りが…神聖な負債があるはず! いま この場ではっきり自覚なさい ウルフ金串のためにも 力石くんのためにも 自分はリング上で死ぬべき人間なのだと!

「リングの上で死ね」とキッパリおっしゃってますよ、葉子さん。


ボクシングをやめることを許さず、次から次へと強敵をあてがい、パンチドランカーで廃人になるまでジョーを追い込んだ張本人は、白木葉子。『巨人の星』なら一徹の役どころです。ヒロインなのに。


自分の見込んだ相手が本物かどうか見極めるために、徹底的に追い込んで追い込んで、極限まで追い込んで、最後には相手を壊しちゃう。これって、星一徹が飛雄馬にしたことと同じ。


一度 拳闘に とりつかれると どんな うつくしい悪女の魅力よりも とことん男を 血まよわせ……狂わせ 若さにたぎる血の 最後の一しずくまで すいつくした  あげくのはてに――――― ボロボロにされてポイ…さ

「拳闘の女神」がうつし身をもつと、白木葉子になるのでしょうか。


そして、ジョーにとっての白木葉子とは何者なのかは、パンチドランカーになったカーロス・リベラをめぐる会話で明らかになります。


治療のためにカーロスを預かりたいと申し出る葉子に対し、ジョーが激烈な怒りをぶつけて怒鳴る。


おまえさんのような ビジネスのかたまりみてえな 残酷女に こうして かよわい赤んぼうみたいに なっちまった カーロスをわたせるかっ

…つまり、「お前のような母性の欠落した冷たい女に赤ん坊はまかせられない」ってことですよね。


「世界一の名医にかからせて治療してあげるから」と理をとく葉子に対して、「お前はカーロスを愛さないからダメだ」と情を理由に拒んでいる。全然かみ合っていないというか、無茶苦茶な言い分です。

でも、過剰に反発するというのは、相手に求めて得られない悲憤の裏返しな訳で。


ジョーが葉子にあれ程までに反発するのは、葉子が「高慢ちきなブルジョワ女」だからではなく、葉子が「子を愛さない母」 だから…孤児であるジョーにとっては、自分を捨てた母を意識させる存在だから…だと思う。



そんな「無情の母」葉子が、最後の対ホセ戦では、悩んだ末にジョーの側につく。

「まともな大人の世界」の価値観を背負ったホセに対し、「少年が少年であるということ」をまっとうするために、破滅を覚悟で挑むジョー。

大人の理屈でいえば無益で愚かな行為でしかないのに、葉子はそれを支持する。おっちゃんですら止めろと言うのに。


最終回を終わらせるのに、 真っ白というキーワードを持ってきて話を構成しているけれども、 それは必ずしも作品全体を意味づけるような ラストの言葉ではないと思う。〔島本和彦〕

出会いの時、大人の世界の法律で裁かれる自分を、(ジョーの主観では)つめたいさげすみの目で見下ろしていた葉子が、今はリングの下から声援を送っている。


何が起ころうと、どんな結果に終わろうと、私はあなたを最後までちゃんと見ていますよ。そう言っている。

だから安心して破滅に飛び込んでゆくことができる。廃人となった自分を…「かよわい赤んぼう」になった自分を受け止めてくれる母がいるから。



漫画家のお気にはめさなかったけれど、原作者の用意したドラマは、そういうものだった。


これは恋の話じゃないよね。少なくとも西洋近代的な「恋愛」ではない。日本の伝統的な男女関係はこういうもんかも知れないけど。

そして梶原一騎先生の実人生というのが、ほぼ創作をなぞるように展開しているのが文学的というか何と言うか。


こうして見ると、たしかにあのグラブは、 段平とか他の人間には渡せないですね。 少なくとも、ホセには渡せない。〔ササキバラ・ゴウ〕
ジョーのために「あした」を用意しつづけて、 しかも最後まで少年院流を支持したのは、葉子だけだもんね。〔島本和彦〕

かなり長い間、あのラスト近くの展開では段平のおっちゃんの立場がない(ジョーの一番身近にいて健康管理を担当していたのに、重症のパンチドランカーの兆候に気づかず、試合で死なせてしまうのでは、トレーナー失格でしょう。あの後、自責の念からまた酒びたりになって、駄目になっちゃうのでは)と思っていたのですが、白木葉子がそういう意味付けのキャラクターである以上、仕方ないのかな、と最近は思うようになりました。



(付記:世間の「ジョー語り」は林屋の紀子とのデートシーンでの「真っ白な灰に~」というセリフをやたらと持ち上げるが、あれはちばてつやが原作を理解する為に引いた補助線ようなものだ。作品の本質である図形本体を見ずに補助線ばかりをもてはやすのは違うだろう…と思っていたので、島本先生の「(真っ白というキーワードは)作品全体を意味づけるようなラストの言葉ではない」という発言は心底うれしかった。)



『あしたのジョー』とキリスト教の関連について、補足。



カーロス・リベラがドヤ街にギター抱えてやってきて、いい声で歌う。その歌はベネズエラのフォルクローレではなく、賛美歌。

しかもその歌詞は、命の糧を生み出す農民の労働は神の御心にかなったものであり、もろびとが戦いを止め、剣を鎌に持ち代える平和の御世の到来をのぞむ…という内容。


でもそれを歌うカーロス自身は、地に足のついた生産労働ではなく、大衆の暴力欲求を満たすための見世物…プロボクシングを生業にしているというアンビバレンツ。


カーロスを探してやってきたマネージャーのロバートも、白木葉子も矢吹ジョーも、全員「神の御心に背いた者たち」なのですよね。


父に背き、神に背き、異端の女神に荒ぶる血をささげた男たちの物語…それが、梶原一騎の『あしたのジョー』なのです。

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