聖典と偽書~ヤスの作家性
- vicisono
- 2012年10月31日
- 読了時間: 5分
更新日:2019年9月19日
このページにはビジュアルノヴェル『うみねこのなく頃に』『うみねこのなく頃に散』のネタバレが記載されています
2012年10月31日 (初稿)
2013年07月27日 (改稿)
2019年09月18日 (サイト移転)
基本事項
1987年に公にされた右代宮真里亞名義の手記入りのワインボトルは2本。その内容は「おかしな幻想小説」。
細かい字で書かれた日記風の膨大な手記。日記風ということは、マリアの一人称で書かれているはず。事件の内容自体はゲームの1&2の盤面と同じとしても、全てはマリア視点で再構成されている。より正確に言えば、マリア視点で書かれたオリジナルテキストを三人称+バトラ視点で再構成したのがゲーム内の盤面内容であり、それゆえの歪みが解読の難易度を上げている訳だ。
EP8によると、ベアトはLegend of the golden witch、Turn of the golden witchに加え、Land of the golden witchを封入したボトルも流したが、失われたという。
流されたボトルの総数は不明。
ベアトは実際に事件が起こる前にイタズラ心で海に投じたと縁寿に語ったが、どう考えても嘘だろう。事件の真相を糊塗する為に事件直後に流したと見える。
バリエーション
同一シチュエーションで毎回共犯者を変えるシステムに則って作成されたバリエーションなので、
Legend メイン共犯者・絵羽夫妻
Turn メイン共犯者・楼座
そして、島から脱出した約10年後にヤスとバトラの共作で「偽書」としてネットに発表したものは
Banquet 現実の『結果』を踏まえてエヴァの九羽鳥庵退避と生還が描かれている。
Alliance 兄弟妹が結託し、金蔵の仕業を装ってエヴァ一家を殺害しようとする影で、真ハンニンが虐殺を行う。メタ世界のベアトとバトラに関する描写もあるらしい。縁寿も登場。
End クラウス一家以外の全員が共謀して連続殺人の狂言を行い夏妃を恫喝しようとする陰で、本物の連続殺人が行われる。
何故か「ルドルフ夫妻がメイン共犯者のEP」は存在しない。
Endのナツヒ恐喝はルドルフ一家が主導しているとはいえ、「真犯人の起こす殺人事件に協力」とは性質が異なる。
尚、Legend、Turnは特定の人間を犯人とほのめかす事はなく、あくまで「魔女の仕業」を主張する内容であるが、Banquet、 Alliance、Endはそれぞれエヴァ、金蔵、ナツヒ(もしくはバトラ)という「見かけ上の犯人役」が存在する。
また、ヤス単独作品では、使用人たちは未成年者を含む主家の人々が虐殺されるのを知りながら真犯人に協力しているが、偽書においては、使用人たちは皆「当主の仕組んだ狂言」と信じ、利用された挙句に殺害されている。
共犯者達
ヤス作のオリジナルボトルメールであるが、主犯の動機は本シリーズ最大の謎なのでここでは置くとして、親族共犯者の動機はそれなりの説得力をもって描かれている。
問題は使用人たちである。あれほどの凶行に協力する理由がわからないのだ。
普通の人間は、余程の切羽詰った事情でもない限り、億単位の金を積まれても子供を含む10人以上の大量殺人に協力したりはすまい。
だからバトラ原案の偽書では使用人たちは全員、本物の殺人事件と知らぬままに利用され殺害され、南條にしても「莫大な治療費のかかる難病の孫の存在」「孫に対する愛情」を描写し、金目当ての協力にエクスキューズを付加している。
(作中では結果的に見込み違いではあるのだが)EP2における駒バトラの「(郷田さんのことは良く知らないが)自分のメシをうまいと褒めてくれた人を、…たとえカネを積まれたって殺すもんか」というセリフは、ナイーブではあるものの、生活人として実にまっとうな見解だ。
裏切られるリスクを潜在的に引き受けつつも、それでも他者を信頼するという基盤がなければ、現実の世の中で生きてゆく事はできない。
ヤスの作家性
ヤスがこのシナリオをあくまで「机上論のパズル」として制作したのならば、いい。
しかし本気で「源次や熊沢は金を積めば親族殺害に協力する」と思っていたなら、問題だ。
源次と熊沢は何億積まれようが『絶対に』親族殺害に協力などするまい。する訳がない。
何故ならこの2人は、ヤスを我が子のように愛しているのだから。協力どころか身体を張って止めるだろう。
それに2人は金蔵の子や孫たちのことも愛している。ヤスからみれば欲に塗れた醜悪な大人たちでも、彼等にとっては不幸な父子関係に心を痛めながら何十年もその成長を見守ってきた可愛い子供たちなのだから。
その愛が、ヤスには視えない。
それをヤスという人間の異常性と解釈し身震いするか、そこに不幸な生い立ちゆえの傷ついた心を幻視し同情するかは、観測者であるプレイヤーの「愛」の問題である。
魔法もミステリも理解している、つまりは情理を共に理解しているトオヤ=バトラ作のシナリオは、愛も欲もあるが故に心理誘導に引きずり回されてしまう親族達と、あくまで殺人ではなく「趣向」と騙されて協力する使用人達、そんな彼等をあざ笑うように暗躍し凶行を繰り返す真犯人…という人間的なリアリティがあり、それゆえに生々しく不快な作りになっている。
底意地が悪いが、人間性というものを理解した作者の作品だ。
それに比べてヤスの作品は、美しいが観念的で、生身の人間の臭いがしない。
思うに、『現実』の六軒島の惨劇も、このヤスの「人間性に対する無知」が関係しているのではないだろうか。
ヤスが机上の空論の見立て殺人を実行しようとしたが、生身の人間達は計画通りに動いてくれず、次々と不測の事態が起こった挙句に美しさも神秘性も何にもない、ひたすら泥臭く感情的な暴発で惨劇が起こり、逆にヤスの計画がそれに利用されてしまう。現実を前にしたヤスは、到底実際の殺人など犯せず、ただただ翻弄されるだけ…。
ヱリカ「カネを握らせて口裏を合わせたなんて、あぁ、本当に三流。下らない下らない」
それでもバトラはヤスについて「愛」に基づいた解釈をし、人生の共犯者になる道を選んだのだが。
源次に関して言えば、爆破装置を生かしたままで引き継がせたという罪はある。
ヤスに 「金蔵の全て」を渡したのは、源次なりのルーレットだったのだろうか。
全てを知った上で、いつの日か金蔵を理解し許して欲しい…という、愛に基づいた奇跡への祈り。
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