1986年問題
1987年にバトラが帰還しても、色々な要素が「後の祭り」であるのは分かる。 が、85年と86年の条件の違いはなんだろう。
1987年にバトラが帰還しても、色々な要素が「後の祭り」であるのは分かる。 が、85年と86年の条件の違いはなんだろう。
ヤス単独作品では、使用人たちは未成年者を含む主家の人々が虐殺されるのを知りながら真犯人に協力しているが、偽書においては、使用人たちは皆「当主の仕組んだ狂言」と信じ、利用された挙句に殺害されている。
各エピソード中、儀式に必要とされる13人のイケニエ以外にも、「魔女のきまぐれ」により命を奪われた者たちがいる。しかしそれは本当にきまぐれによる殺人だったのか。 改めて各エピソードの死者数を確認してみる。
ゲーム内現実において、右代宮縁寿と作家・八城十八は実際には顔を合わせていない。 EP8エピローグにおいて、数十年後にエンジェと八城が会見する描写があるが、これはフェザリーヌ筆の幻想である。
しかしその外枠のゲーム自体の構造を見れば、「このゲームを作った者」が「プレイヤー」に長々とした物語を見せた末に、最終的にボタンクリックによって魔法ENDか手品ENDかのどちらかのエンディングを確定させるものだ。
EP8を除くどのゲーム&カケラ内でも、ルドルフはキリエとバトラに「家族会議」を提案しつつも、結局事件が起きたせいでバトラの出生事情を告白していない。そしてEP8内でさえ、バトラ卿がその事実を知ったという描写はない。
メタ界での物語をあくまで単なる幻想として扱うと、EP6~8は聖典・偽書・各種資料を検討し真相を考察するエンジェの脳内で繰り広げられる推理が装飾されたもの…と解釈できる。
ゲーム内で明示・暗示された限りにおいては、金蔵の孫たちは全員3を選択しているのである。 …では、最後に残った孫である右代宮縁寿の選択は?
ジョージ殺害は魔女のきまぐれではなくイケニエの穴埋めであり、魔女復活の儀式に必要な殺人である。
そんな訳で、三池崇史版『愛と誠』。 あくまで『愛と誠』をネタにした映画であって、人物配置等は同じでも梶原一騎先生の『愛と誠』とは全く違ったテーマや存在意義を持つ作品だなーというのが結論。 一番端的なのが岩清水の告白場面。 原作の岩清水のセリフ(愛に送った手紙)は
1978年11月27日、サンフランシスコ市長ジョージ・モスコー二 George Mosconeと市評議員ハーヴェイ・ミルク Harvey Milk が殺害された。 犯人は同じサンフランシスコ市評議員のダン・ホワイト Dan White。 三十八口径のスミス&ウェッソン・チーフ
肉体の成長に逆らってバンタム級にしがみつくジョーを、止めることのできなかった拳キチのおっちゃんですが、あれが星一徹や車周作、鬼利鎌だったらどうなってただろう。 実際に止めるかどうかはともかく、有無を言わさぬ怒涛の男語り(笑)で、止めることは可能だったような。
「拳闘の女神」がうつし身をもつと、白木葉子になるのでしょうか。 そして、ジョーにとっての白木葉子とは何者なのかは、パンチドランカーになったカーロス・リベラをめぐる会話で明らかになります。
「正統キリスト教の助祭長の隠された欲望の為に殺される呪わしい不信仰の輩であるジプシー女」の役を演じた女がヒロインにして物語のフィクサー…ということは、物語の大前提として「父への反抗」が隠しテーマとして存在するのですよ。
「キャラ属性」(美形・ブルジョワ・天才・キザ男)を抜いた「キャラクター」としての「花形満」の本質は、「矢吹丈」に近いのではないかと。 そして飛雄馬は花形にとっては「力石徹」に相当するキャラクターなのではないかと。